NHKにようこそ

2006年2月6日 読書
西尾維新の出世作なら
さっき僕がネットで見つけておいたから
滝本の話をしよう
眠ってしまうにはまだ早いだろう

この本を見てるのは
君と僕と あと何人いるかな
ある人は泣いているだろう
ある人はnyでもしてるんだろう

子供らをヒキコモリに ニートにもせずに
この街で暮らすため まず何をすべきだろう?
でももしも社会的に 絶対弱者になったとき
出来ることと言えば
涙を流し 瞼を腫らし
祈るほかにないのか?



引き篭もりの星と、少々に古い言い方をするなればそうなるのかもしれない。
はてはて、はたして、その星は一体なんだったのだろうか。
勿論、空を輝く星と言う意味では無いのだろう。
ただ、輝くと言う所を引用して星と表現しているのだろうか。
いやはや、それはどうだろう。
果たして空に輝く星を見上げるヒキコモリなど、一体どれほどいるだろう。
都会と田舎のヒキコモリ分布数の変化を持ち出さずとも、家から出ないのが引きこもりと定義するならば、ヒキコモリは空を見上げることなど有ってはならないはずだ。
いやいや、早計かもしれない。
夜中ならば出る事もあるのではなかろうか。
違う、そうじゃない。

そう、滝本竜彦の冠された星とは。
詰まるところ電子の星と言えるのではないだろうか。
モニターに映る虚構や妄想や恍惚。
それらの光と闇が紡ぎ出す表情に僕らは夢中なのは言うまでも無い。
老若男女、すべからくを虜にする電子の情報は鮮度満点でデリバリーされている。
そんな電子の星に滝本はなったのではないだろうか。

いつ消えてもおかしくない情報の集まりはそれだから美しいのかもしれない。
最後は電子の海の藻屑と消えるならば、星もそうなるのかもしれない。
電子の星も所詮は劣化も風化もする暇も無く藻屑と消えるのだ。
それならば、それならば、美しくなくてはならないのだ。
だから皮肉も下卑もこめずに、滝本作品を読んであげてもいいんじゃないかな。
なんつぅか、そう思う。





んー。
特に具体的に言うことが無いとこんなカラッポな文になってしまう訳なんですね。
言うなれば「毎回毎回展開一緒」
んまぁ、お約束も美学の一つだと思うわけですが。

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